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秩序と、非秩序 ~ティアラ展その2~

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ジュエリーを、なぜ人は太古の昔から、身に着け、身に着けたいと思うのか。
まだ、私はそれについての確固とした自分の考えを持っていない。

ジュエリー、それは、身に着けなくても、ましてや食べ物のように摂取して生命を維持したり、住居のように雨風から自分を守ってくれるものでもない。衣服に一番近いような気もするけれど、衣服は現代の日常生活で必需品であるのに対して、(日本の)ジュエリーは、そうでもない。

それらと相反するところにアートが存在しているような気もする。アートがなくても、人は生きていける。この辺はジュエリーと似てる。

でも、人は、その人独自のアートを人生の中で、何かの秩序に基づいて、どんな形であれ、作り上げていってると思うのだ。ある意味、人の生き様そのものが、アートなんかな。とも思う。

前置きが長くなったけれど、ティアラ展の感想。
100個のティアラは、どれもそれぞれの美しさを今でも保ち続け、単純に美しい、という意味で私を魅了する。それは、ダイヤの輝きであったり、秩序だった連続する曲線だったり、逆に、予想もしない石の配列から放たれる非秩序な輝きだったりもする。

展示の最後の方に、ティアラを実際に作り始める前の、スズなどの金属を白く塗った試作の型が100個ほど展示してあるところがあって、少々食傷気味の私は椅子に座ってそれをぼんやり眺めていた。
影が美しい!
白い型の向こうに映し出された、黒いティアラの影が、それまで影になど気にも留めてなかった自分に語りかける。

表面をとおりすぎるだけの美しさ、楽しさ、豪華さだけではない部分。
人はそれをただの影として、やりすごすのかも知れないけれど、
影がなくては、白いティアラもまた存在しない。


今日の晩、師匠と「人はなぜジュエリーを身に着けるのか」という話をしたら、師匠からは二通りの答えが返ってきた。
師匠はその二通りの考えを、生き様という師匠の秩序の中で表現し続けている。
私は私なりの、光と影について、考え、表現し続けよう、と強く思う。

現時点の、着け手としての自分にとってのジュエリーは、孔雀の羽みたいに、自分を美しく見せ、相手を魅了したい、っていうもの以外の何ものでもなかったんだけど。これを期に、着ける人と、作る人のバランスについても、考えてみようと思いました。

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